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2019年10月31日木曜日

400年前の検地記録

江戸初期に幕府が全国で実施した土地の測量調査「慶長の検地」のうち、慶長19(1614)年に松本藩主・小笠原秀政公により旧白板村(松本市白板)で行われた検地の記録「定納帳」が、松本市白板2の林歯科医院顧問・林清平さん(67)宅で29日までに見つかった。

検地に際して、実際に田畑の面積を調べるのはどのようにしていたのか、特に広さも形もまちまちな段々畑はどのように調べていたのか興味があるのですが、このような資料がありました。

方法は先ず、田畑畦畔の屈曲を一直線に見通し、内外出入の坪数を平均し、矩形に見立てて、その長さと横をはかる。小畝歩の場合は間竿だけをつかい、長い時は間繩を使用する。実測した間数と、この間数によって出た畝歩を手帳にしるす。この手帳の数字を浄書し、実測の数字を補正したものを野帳という。
補正した数字を野帳に朱書するわけである。これを「朱間」をきるという。この「朱間」の長さと横の間数と畝歩を清書したのが、「清野帳」である。「清野帳」は村方へ貸出して閲覧(えつらん)させる。村々ではこれをうつしとり、内容を検討して、その持主の名前、字、間数、道堀、村境、脇書、方角等相違ない旨を答申するのである。こうして本式の検地帳が作成されるのである。 

日本の『塵劫記』は「検地のこと」という章で面積を扱っており、まず面積の単位の換算をしています。そして、正三角形、正六角形、正八角形、平行四辺形などの面積計算のほか、曲線の図形を多角形で近似して面積を出しています。この方法が、実際の検地で使われた方法のようです。田に十字形に縄を張って、田と等積の長方形を作ることで、面積を計算します。この縄の張り方が万尾時春『勧農固本録 下』(1725)に図示されています。

意外と、というと当時の関係者に失礼ですが、かなり細かく丁寧に数値を求めていたものなんですね〜。測量後の処理にも、こうした手順があったとは驚き。

そういえば、「野帳」という言葉が出てきましたけれども、この時代から測量と「野帳」という単語がセットだったとは。