で、そのどこに「?」と感じたのかを、覚え書きみたいなものとして。
まず、宮崎駿監督作品へのオマージュが随所にちりばめられているということが観る人に認識されていないと、誤解を招きそうな作品ではありますよね〜。
細かい点での突っ込みどころはいくつもあって、例えば、
- 父親が鉱石を入手した経緯は重要ではないのか
- 大量の資金と人を時間を投入してアガルタの入り口を探している組織がある一方で、アガルタの少女マナの親の片方が地上人というのはいったいどういうことなのか
- 夷族は明日菜とマナをあとで執拗に追うくらいなら、捕らえた時にどうしてすぐに殺さなかったのか
- 明日菜が残してきた母親のことを気にかける素振りをあまり見せなかったのはなぜなのか
・・・まぁ、一度しか観ていないので、どこかで説明があったのを見落としてしまったのかもしれませんけれども。
そうしたことよりも気になったのが次に挙げるところ。(第三者がそう表現しているだけなのかもしれませんが)宮崎駿監督作品へのオマージュというからには、ここを上手く処理して欲しかったという点を。
- アガルタのスケール感
- 非日常世界(この作品の場合はアガルタ)から日常に戻る時と戻った直後の描写
アガルタでの旅路の往路と復路とで距離感が異なって感じられること。そして、明日菜と森崎が移動に要した時間と、シンや追っ手たちの移動速度にも違和感がありますし。夜通し夷族に追われた明日菜がシンとともに引き返した時のアッサリ感も相当なものでしたね〜 w
作品で描かれる世界のスケール感に対して、宮崎駿監督はかなりこだわっているように思います。そういえば、宮崎吾朗監督による「ゲド戦記」もスケール感に関しては全く駄目でした。
2. について
「カリオストロの城」でも「もののけ姫」でも「千と千尋の神隠し」でもそうですが、大きなイベントが終わったり、非日常世界から現実世界に戻る時・戻ったその時に主人公はどう行動したのか、周囲は主人公をどう迎えたのかが宮崎駿監督作品ではちゃんと描かれているんですよね〜。そうすることで、観る人もまた異世界体験にケリをつけてスッキリした気持ちで映画館をあとにできるわけです。
ところが、この「星を追う子ども」ではこれから帰るというシーンはあっても、帰ってきてお母さんと再会したりするシーンが描かれることもないまま、月日が経過した場面にいきなり飛んでしまっているんですよね〜。これでは明日菜とアガルタを旅してきた観客は置いてけぼりをくらった感でいっぱいになってしまうというもの w アガルタで過ごした時間が、現実世界でどのくらいの時間に相当するものなのかもわかりませんしねぇ。この作品に関しては「夢オチ」も有りかな、とも思ってしまいました。
こんな感じでしょうか。繰り返しになりますが、一度しか観ていないので誤解したりしている点があるかも。