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2022年3月22日火曜日

ゼレンスキー大統領 あす国会で生中継で演説


ゼレンスキー大統領による国会での演説について、あす午後6時から衆議院議員会館内の会議場とホールを利用して行われることが正式に決まりました。

演説は、▼生中継で10分から15分程度、▼また、ウクライナ語で行われ、同時通訳が入るということですが、国会関係者は現地の戦闘状況次第で変更となる可能性があるとしています。




22日開かれた衆参両院の議院運営委員会の理事会で、23日午後6時から、衆議院の議員会館にある国際会議室と多目的ホールで、オンライン形式で行うことが決まりました。

会場には、岸田総理大臣や衆参両院の議長、コルスンスキー大使らのほか、国会議員も参加する予定

青空


雪が止んで青空が。 

iPhone SE2で撮影。

安涼奈さんの決意


Khersonでの抗議活動に対してロシア軍が発砲

Footage shared on social media, verified by the BBC, also showed explosions which were reported to be stun grenades.











アレッポの戦いを知るシリア人がロシアのウクライナ侵攻に思うこと

ロシアの後ろ盾で、アサド大統領率いる政権と同盟国はアレッポ東部を戦闘地域にした。16年12月、包囲された30万人の住人は食糧供給手段を断たれ、爆撃により降伏を強いられた。こうした戦術は戦争の間ずっと国内のあちこちで展開された。
オバマ米政権は13年、自国民に化学兵器を使用したアサド政権が「越えてはならない一線」を踏み越えたと発言した。だが西欧諸国は、軍事介入はしないとの決定を下した。
ロシアはシリアでの軍事介入で人口密集地を無差別に爆撃し、病院や市場、学校などを攻撃した。
ロシアのプーチン大統領がシリアでの行為に免罪符をもらったことに勢いを得て、クライナ侵攻に踏み切ったのではないかと感じているシリア人は多い。



桜田門外の変の指揮者である関鉄之介の聞き取りを記した日記

安達は、関から事件の様子を聞き取って詳細に記しており、日記によると、襲撃の合図のピストルを発砲すると、護衛の武士が15メートルほど退き、井伊大老は「ヒストンノ玉胸先ニ中リテ死シ」などと死因も記していた。



安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外の変で実行隊長として襲撃を指揮し、直弼を暗殺した。その後、幕府の探索が厳しくなったことを警戒し、薩摩藩などを頼って近畿・四国方面の各地を逃げ回ったのち、薩摩へ向かおうとしたが、薩摩藩がすべての関所を封鎖。他藩の者の出入りを禁じたため、受け入れられず水戸藩領へ向かい、文久元年7月9日(1861年8月14日)に袋田(現在の久慈郡大子町)に入って、櫻岡家にかくまわれた。しかしそれでも危険が迫り、水戸藩領内を転々と潜伏した後、越後へと逃れたが、湯沢温泉(現在の岩船郡関川村)で捕らえられた。

水戸で投獄された後、江戸送りとなって、文久2年5月11日(1862年6月8日)に日本橋小伝馬町の牢において斬首された。享年39(満37歳没)。

先供が松平親良邸に近づくと、まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づいた。彦根藩士・日下部三郎右衛門はこれを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかったため、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストルを駕籠めがけて発射した。これを合図に浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃が開始された。

発射された弾丸によって、直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かき、徒歩人足はもちろん、彦根藩士の多くも算を乱して遁走した。残る十数名の供侍たちは駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置された。
襲撃の現場総指揮である関鉄之介は、3月5日に江戸を出発して京へ向かい、中山道から大坂へ入った。大坂へ辿り着いた関は高橋多一郎らの死と、薩摩藩側の率兵上京計画が果たされないことを知った。以後、彼は 山陰、山陽、四国、九州と西国各地を転々とした。関は薩摩藩へも入ろうとしたが、既に島津久光の命で薩摩の全関所が閉ざされていたため、薩摩入りできなかった。関はやがて水戸藩領へ戻ることを決め、万延元年(1860年)7月、水戸藩久慈郡袋田村に入り、この地の豪農でかねてから懇意の郷士格・桜岡源次衛門に匿われた。桜岡は、かつて藩命で関が担当した蒟蒻会所の裏部屋などを、彼の隠れ家に提供した。文久元年(1861年)7月、関は密かに水戸の高橋多一郎の家を訪ね、さらに息子へ密かに会いに行った。関は再び袋田へ向かったが、これを期に水戸から探索の足が着いた。その後、持病の悪化と探索を逃れ、諸国に潜伏。同年10月、関は水戸藩士によって越後の湯沢温泉で捕縛され、同年11月に水戸へ護送されて、城下の赤沼牢に投獄された。文久2年(1862年)4月5日、江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った。関の獄中の詩集『遣悶集』がある。また、襲撃前の潜伏時に関が身を寄せた芸妓・滝本いのは、幕吏に捕らわれて尋問により獄死しており、関はここでそれを知った。同年5月11日、関はこの小伝馬町の牢において斬首された。

麦畑


iPhone SE2で撮影。