カンヤ祭を舞台に発生する連続盗難事件という話と並行して、もうひとつのテーマが描かれてきていました。圧倒的な才能を持つ者に対して、(自称)凡才が感じてしまう嫉妬・ねたみ・引け目・憧れ・尊敬・・・といった諸々の感情。
話をザックリと簡単にすると、天才と凡才、凡人から見た天才ということになりますが、この第17話「クドリャフカの順番」では、以前から描かれている折木奉太郎と福部里志の関係に加えていくつかの例が明らかになりました。前者が天才、後者が凡才として整理すると・・・矢印は、鬱屈した感情 w がどちらに向いているか、です。
- 折木奉太郎←福部里志
- 安城春菜←河内亜也子
- 陸山宗芳←田名辺治朗
- 安城春菜・河内亜也子←伊原摩耶花
田名辺治朗は、陸山宗芳と安城春菜という二人の天才に接していたわけですからねぇ。同様に漫画研究会の部長である湯浅尚子も、河内亜也子、そして(直接は親しくなくても)安城春菜という天才の存在に複雑な感情を持っているのかも知れません。
それから、福部里志は入須冬実をやはり天才として分類していそうな気がします。「愚者のエンドロール」において、入須冬実から、あるいは折木奉太郎・入須冬実ペアから感じた疎外感は、自分が彼らの前では凡人に過ぎないという現実を改めて突きつけられたことによるものでしょうし。
そういえば、「喫茶 一二三」で入須冬実が折木奉太郎に協力を依頼する時に披露した例え話も、圧倒的な才能を持つ者と凡人についての話でした。
奉太郎の姉の折木供恵や千反田えるも、天才に分類される人物でしょうね〜。
となると、福部里志と伊原摩耶花の二人が凡人を代表するキャラということになるわけで、ひょっとすると作者はこの二人に対しては奉太郎や千反田える以上に想いを込めて描いているのかも知れません。
まとまりの無い内容になりましたけれども、この手の話になるといつも思い出すのが、映画「アマデウス」です。天才のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに対するサリエリの複雑な想い・・・。
でも、天才の偉業を、あるいは天才が天才である所以を広く伝えることは、実は(自称)凡人にしかできない仕事なのかもしれませんね〜。
でも、天才の偉業を、あるいは天才が天才である所以を広く伝えることは、実は(自称)凡人にしかできない仕事なのかもしれませんね〜。