2012年8月13日月曜日

議論の効用

起こりうるのは「一部の人に、自分の意見を放棄させる」ということだけです。話し合って合意に達したように見える状況を思い浮かべて下さい。
 そこで起こったことは、「議論を通して、全員が同じことを信じるようになった」ということではありません。一部の人が「まあいいや、お前の判断に従おう」と考えたから合意に至ったのです。「今回はそっちの方法でやってみようと思った」というだけです。

「議論をする」ということを、「三人寄れば文殊の知恵」的な創造の場ではなく、判断を下すための前提として各自意見を述べ合う、主張するという意味に限定するのであれば、議論というのは、確かに誰かの意見を放棄させることなのかもしれませんね〜。

ただ、各自が言いたいことを発表する議論には、上記の引用箇所にもありますが、みんなの前で発言できたから「まあいいや」と思わせるガス抜きの効果が期待できるという側面もあると思います。

議論の主催者側の立場で言えば、「言いたいことが言えたから、あとは議長の判断に任せます」みたいな方向に持っていく作戦です。で、紛糾している会議もこれで収まってしまうケースが意外と多いのではないでしょうか。意見を放棄させる側にとっても好都合ですし、意見を放棄させられた側にしてもスッキリとした気持ちにはなれるわけです。

別な言い方をすれば、「持論はあるけれども、仮にそれが可決・実行された場合の責任はとりたくない」というスタンスで議論に臨む人や、判断の責任を取れる人と取る立場にない人が入り交じって議論が行われるケースって、実はかなり多いのではないかと思うわけです。

意見はあるけれど、責任は負いかねる、あるいは責任を取りようにもその立場にない、という人たちをまず満足させるには、こうした議論の場は設けたほうがいいですよね〜。で、実質的な決断の場からは退席願うと w 政党の党内集会や株主総会などは、こんな感じなのではないでしょ〜か。

ここでいう議論の多くは、参加者にとって価値があるのではなくて、議論を主催する側にとって都合の良い結果をもたらすためのものと言えるのかもしれません。